戎光祥選書ソレイユ
竹井英文『戦国武士の履歴書「戦功覚書」の世界』
こんにちは不識庵です。
憂鬱な花粉の時期になりました。新型コロナウイルスも心配な中、マスクも無いし、どうしたものか。
なるべく外出を控えて読書しましょう。ということで、昨年末に出た本書を読んでみました。
本書のネタとなった史料は、「里見吉政戦功覚書」(館山市立博物館所蔵)です。
寛永5年(1628)に記されたもので、里見吉政という武士が77才になって、それまでの生涯で参加した合戦について箇条書きにしたものです。一般的に知られていないと思いますが、巻末には全文の翻刻がありますので、それだけでも本書を手に入れる価値はあります。
目次です。
本書の主人公である里見吉政は、上野国里見郷出身で、北条氏照、北条氏邦、滝川一益、安中氏と主を替え、秀吉の九州攻めや小田原合戦に参加、その後は徳川家の井伊直政に仕えて、彦根藩井伊家の重臣となったように、主替えを繰り返した「渡り武士」でした。
主替えをしない忠臣のことを「二君にまみえず」という表現をしますが、主替えを繰り返した里見吉政は不忠者なのでしょうか。
「二君にまみえず」という考え方は、江戸時代から広まったことです。江戸時代、幕府は下剋上の動乱をいかに鎮めるかにあたって、儒教である朱子学を武士の基礎学問として奨励し、主従関係の絶対化を思想的に浸透させていきます。ここから、二君に仕えないという考え方が出てきました。
そもそも武士の主従関係というのは、御恩と奉公の双務的関係が原則です。どちらが先ではなく、主従お互いに義務があるということです。一方が怠れば、関係を解消するのは当然であるというのが中世の武士の考え方でした。ですから、近世以降の考え方でみると節操が無いと思われがちな吉政のような「渡り武士」は当たり前にいたのです。歴史は、事実の明確化とともに、その当時の思想行動に立って評価しなければならず、簡単に善悪で片付くものではないのです。
しかし、このような中世的思想は、江戸時代においては危険であり、御恩と奉公は片務的関係に変質し、主君は絶対化され、「君君たらずとも臣臣たらざるべからず」という家臣の滅私奉公が奨励されるようになっていったのです。
何だか経済成長期頃の、40年間もずっと同じ会社のために尽くす終身雇用制度も似たような感じですよね。転職を繰り返す人に対しては、マイナスイメージがあった社会でした。でも、社会が安定して、会社も潰れないという前提条件が必要ですよね。今は、そんな前提条件も危うく、必然的に終身雇用も崩れ、非正規労働者が大量に生まれている現代日本では、中世的思想に回帰する必要があるのかもしれません。その点で、実力のある「渡り武士」に対しては共感できる部分も多くなっているのではと感じます。本書の刊行は、時代の流れかもしれませんね。
さて、戦功覚書には、他の史料では知られていない事柄も書かれていたりもしますが、何せ当人の記憶によって記されているために、そのまま鵜呑みにするのもどうかなという場合もあります。その点は注意をしなければなりません。本書も、注意深く記述しています。
戦功覚書は、各地に残されており、ほぼ江戸時代初期に作成されたものです。戦国の動乱が終息しつつあるなかで、領主の再編成が起こると(つまり興亡)、武士の移動も激しくなります。再仕官のために戦功を書き上げる必要が出たり、また仕官先の主君の求めに応じて作成するなど、様々な理由で残されました。
戦功覚書のような戦国から近世への移行期の史料は、何かと見過ごされがちでした。その原因の一つは、史料集の編纂は主に中世と近世に分けるため、移行期の史料はすっぽりと抜け落ちてしまうことがあるからです。しかも戦功覚書のような史料は、参考程度に考えられてきたために、史料集への採録は控えられる場合が多かったと思われます。
私が目にした中で「里見吉政戦功覚書」はかなり長文な覚書だと思います。合戦の様子も比較的詳しく書かれています。被った旗指物のデザイン、死骸の引っ張り合い、「しほり」(バリケードのようなものか?)という陣地の防御設備など、興味深い事柄にあふれています。その詳細は、ぜひ本書で確かめていただき、戦国武士の生き様を味わってもらいたいと思います。