ミネルヴァ日本評伝選
矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ書房、2005年)
大分、前に読み終わっていましたが、なかなか更新をすることができませんでした。読み終えた感想は、これで終わり?といった感じで、もう少し、謙信の内面にまで踏み込んで欲しかったと思います。確実な史料から謙信像を構築するという著者の態度には、もちろん賛成ですが、そこから人物評価をしていくことも必要なのではないでしょうか。そのことは、文学とのギリギリのラインにまで踏み込んでいくことになりますが、あくまで史料から導き出す評価であり、まったくの創作にはなりません。歴史家としての見解を出すことが求められるのではないでしょうか。
↓ 以下の文章は読み始めた時の感想です。
井上鋭夫著『上杉謙信』以来の本格的な伝記として注目していました。手に取ってみると、本の厚さが薄いなと感じましたが、いや質と量は関係ないと思い、購入しました。ようやく謙信が登場した頃にさしかかりましたが、それまでの感想としては、著者のすでに発表されてきたものをつなぎあわせたような文章となっており、よく知っている方には新鮮味はありません。
さて、矢田氏といえば「戦国領主」概念を提唱された研究者として有名です。「戦国領主」とは、独自の城と軍隊を持ち、支配する家臣・領地に向けて独自の判物(自分の花押を記した文書、知行の宛行・安堵など)を発給した領主ということみたいです。ですから「戦国大名」と呼ばれている上杉氏・武田氏は、これら「戦国領主」の連合の上に乗っかっている権力とされています。その権力の源泉は、守護権にあり、それは幕府に認定されたものとして、矢田氏は「戦国期守護」と呼んでおり、戦国期の幕府体制を高く評価しているわけです。たしかに、「戦国大名」たちは、受領(三河守や信濃守など)・官途(左京大夫や弾正少弼など)を得るために、任官運動を幕府に働きかけ、実現させています。従来は、これは他大名との抗争に少しでも有利にするため、または支配地域での「公儀」性を獲得するために過ぎず、室町時代の幕府ー守護体制に自らを位置づけるものではなかったとしてきました。ところが矢田氏の見解は、幕府ー守護体制は戦国期に生き続けているという立場を取っているので、必然的に「戦国大名」は存在しないことになります。よって「戦国大名」概念は必要のないものとしているわけです。
キーワードは「守護権」です。
これは、建武の新政を崩壊させた室町幕府が、軍事指揮者にすぎなかった守護に、地方行政官である国司(受領)が持つ地方行政権を付与したことにより、各国内の行政を守護が担い、国衙領と呼ばれていた公領の支配を幕府が守護を通じて行うようになったことにより、生まれた権限です。そして60年にも及ぶ南北朝の内乱の中で、守護は本来将軍が持つ恩賞給付権を獲得し、管轄する国内の武士との主従関係を構築していきます。そして、応仁の乱以後、在京していた守護たちは自分の管轄国へ帰り、守護権を執行していた現地の守護代たちとの権力闘争に打ち勝って、国内の支配を進めていくのです。もちろん、守護代に負ければ、そうはなりませんが。越後の場合、守護代長尾氏や郡司たちの力が強く、結局長尾氏が勝利を収める下克上がおこりましたけどね。甲斐では、守護武田氏が打ち勝ち、信玄の父信虎の代にほぼ一国平定をなしとげました。矢田氏の「戦国期守護」「戦国領主」という考え方は、この武田氏の事例から生み出されたものです。甲斐国では、武田氏・小山田氏・穴山氏が基本的な領主「戦国領主」として国内を三分して支配しており、武田氏は守護として上位に立っていたにずぎないとしました。そのような「戦国領主」「戦国期守護」を、越後にもあてはめたわけです。
私は、「戦国期守護」論には反対の立場をとります。なぜなら、在国しはじめた守護たちは、国内での権力闘争にまきこまれ、その闘争に打ち勝ったものが「国主」として、一国支配を進めていき、支配権力の源泉となったのが前代の「守護権」であるからと考えるからです。甲斐の場合、闘争に打ち勝ったのがたまたま守護であった武田氏であっただけです。武田氏が手にした「守護権」は、もはや室町幕府から委託されたものでも、承認されたものでもなく、実力で勝ち取ったものです。武田氏は新たな支配方式を「守護権」をてこに打ち出していきます。それが、統一的な税の徴収であったり、検地による統一的な軍役の賦課であったりするわけです。そのような政策を進めながら、国内の領主や寺社、郷村との間に新たな関係を築きあげ、天文末期には本格的な国外戦争に乗り出していくわけです。そのような、新たな権力を従来の「守護権」そのものとしてとらえていいのか、疑問です。守護権は、室町幕府下の「守護権」から質的に変化したものとして考えることが自然ではと思います。その質的変化を明らかにしていくことが、戦国社会の誕生、また統一権力となった豊臣政権の誕生の要因を解明する手がかりを得ることにつながると思います。
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「戦国大名」は、国内の領主との間に、主従関係を結んでいきます。越後でも、自立的とされる阿賀北衆であっても、越府に出仕し、国外戦争に駆り出されています。そのような関係があるのに、「戦国領主」論でいくと、まるで上杉氏と主従関係の無い領主がごろごろいるような感じです。たしかに、文書に連署した顔ぶれには柿崎氏、斎藤氏、北条氏ら「戦国領主」がいますが、彼らは上・中越の国衆であり、下越とくらべて、長尾上杉氏の権力・圧力を濃厚に受けている連中です。主従関係は、御恩と奉公という私的な関係ですので、彼らの奉公のスタイルは、長尾氏の本来の家中(被官)と同様なものであったといえます。戦国期の領主は、自己の領地と家中(軍隊)を持っていることは当然で、そういった領主たちが「ぶどうの房」のようにくっついて、「戦国大名」にぶらさがっているような状態が、戦国期の領主関係であるわけです(この例えは、誰か有名な先生が言っていたと記憶しています。忘れてしまいましたが)。私が思うに、そのぶらさがり方は統一的なルールでぶらさがっており、ぶらさがった時期の早い遅い、またぶらさがった経緯、ぶらさがってからの大名権力内での地位(身分)により、奉公のスタイルも変わっているのかなと考えられます。ですから大名領国内に、独立した領主は一人もいなかったと言えます。独立したければ、大名を倒すしかなく、それを試みた領主が国外の勢力と結びつくことは、よく見られたことです。越後の場合、本庄氏が武田氏と結んで乱を起こしますが、乱後も本庄氏が領主として存続したのは、本庄氏が国外の伊達・葦名らとの「合力」関係を持ち、謙信が外交上その関係を重視したためだったからです。本庄氏が強かったからという単純な説明ではすまないのです。
「戦国大名」概念は、有効と思います。しかし、最近では、その概念を上杉・武田・北条といった数カ国を支配する領主の他に、数郡程度を支配する領主まで適用していく研究が多くなってきました。例えば、関東では結城氏、小山氏、宇都宮氏、由良氏などがあげられます。これらを「地域権力」と呼んでいます。「地域権力」概念は、「戦国大名」概念を言い換えたにすぎません。さすがに「戦国大名」と呼ぶことに躊躇したのでしょうか。しかし、由良氏などは上杉氏や北条氏に従属しており、そのような主従関係を持つ両者をいずれも「戦国大名」概念でくくってよいのでしょうか。この点を考える上で、キーワードになるのは「国衆」論や「公儀」論でしょう。これについては、またの機会に触れてみたいと思います。
参考文献
矢田俊文『日本中世戦国期権力構造の研究』(塙書房)
市村高男『戦国期東国の都市と権力』(思文閣出版)
黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版)
荒川善夫『戦国期北関東の地域権力』(岩田書院)
久保健一郎『戦国大名と公儀』(校倉書房)など
なお、以上の文章は、私の個人的見解です。勢いで言っていることもありますので、うのみにせず、きちんと文献にあたってください。まぁ、そんなに間違っていないと思いますけど・・・。転載厳禁です。
なお、吉川弘文館の人物叢書には、予定刊行書目に「上杉謙信」があがっていますので、どのような謙信像が新たに提示されるのか、待ち遠しいです。
※以上の文章は、本書が刊行された当時のものです。
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